今日は日曜日。

ちょいと遅めに起き、サンデーモーニングのスポーツコーナーを見ながら朝食。

両手のひら一杯分の生野菜を食べてから、卵焼きと味噌汁、たくわんで茶碗8分目のご飯をたいらげる。

張本氏は今日もメジャーと若者に理解がないな。

見ていてイライラするのだが、この安定ぶりは、貴重でもある。わからずやの頭カチコチのおじいさんの考えていることを聞く機会はなかなかない。

体制側におもねり、柔軟性がなく、新しいものを認めず、自分の価値観に沿うものだけを賞賛する。

そういった、ダメな上のおじいさんの考えがむき出しでメディアに出てるのは地上波ではここぐらいだから、しょうがないなとおもいながらついつい見てしまう。

放送中、自分に異を唱えたコメンテーターを制作側の忖度で降板させるとか、常軌を逸している。

ハングル語をマスターしないと上に行けない、と安住アナが愚痴っていた、という噂があるTBSの社内事情がよく見えるが、それ以降、この番組は報道番組ではなくTBSの気持ちを知る番組、として見ている。

 

き、で書き出した久々の50音ブログ、テーマは「きらい」です。

 

ちなみに辞書で、きらい、についてひいてみたら、

嫌うこと。と出てました。

 

まんまやないかい!

 

嫌う、をひくと、「そのものをすんなり受け入れられず、避けようとする」

 

と出てました。

 

きらい、とか、おこる、とか、負の感情に向かうのが自分は苦手です。

演劇をやってた時、怒る演技ができなくて、かなりの時間、エチュードをしていたことを思い出します。

 

ちょうど今更?のタイミングですが、ピョンチャンオリンピックカーリングを見ていて、女子チームはパフォーマンスが優れているのはもちろん、容姿がアイドル並、いやスポーツ系アイドルだ、と思ったぼくは、アイドルウォッチャー(アイドルヲタクをこじらせたもの、とお考えください)として、これはもう調べなければ!

と検索をかけることに。(ちなみに僕はカーリングソルトレイクシティオリンピックから見ております。カーリング自体もかなり楽しんでおります。)

 

グーグルでカーリング と入れると、次に、嫌い、という言葉がすぐに出てきました。

ツイッターの検索でも、同じ動きが。

しかも一番上に。

どういうことか?と思い、カーリング 嫌い、を調べると、どうも、カーリング女子チームを見ていたら、メンバーがネイルをしている、とか、競技の途中でおやつを食べてるところを延々と見ていて腹が立つ、とか、メンバーの女子アピールがひどい、とかツイートする女性がある程度いた、ということでした。

僕が見た時はもう、最初の、見ていた女性が嫌い、というツイートの波から、そのツイートを見た人達が、単純に嫉妬やいちゃもんだな、ツイートしている女性こそが醜い、という第2の波の最中でした。

ネイルを塗っているのを批判するのは、生活指導の先生か!?どーでもいいだろ、そんなこと、と思いましたし、おやつ、と言っているのは、休憩時間のミーティングで、頭と体を使う長時間のスポーツなため、(ギブアップがない限り、ストーンを一人当たり2個×10エンド=20個投げねばならない。さらに投げてない時は、スイープをせねばならない)食べなければならないのです。マラソンの給水と同じです。

それに、あの休憩時間を放送してるのは局の判断ですから、文句を言うなら局に言うべきです。(NHKは休憩時間をカットしたら逆に苦情が殺到。すぐにネットに動画をあげることになりました。)さらにいやなら見なきゃいい。

十分見た上で文句を言うなよ、と思います。

身の回りの人に言うのと同じテンションでツイッターにも反感の思いを書いた人が、想定していなかった、いろんな方向から逆に反論がやってきて、それに対して反論するものの、もともとが軽い気持ちで書いたいちゃもんなので、圧倒的多数に正論でタコ殴りにされていました。

最終的に子どもの名前まで晒されるのは、やりすぎだと思いましたが、自分も気をつけねば、と思いました。

 

あるものを嫌い、ということで自分のアイデンティティを確認する感じは好きではないです。

否定することからは何も生まれない気がするのです。嫌い、というのは、そこにリーチする可能性がない、その能力がない、と言っているのと同じだと思います。

私、それ知らないし、という人の行為と同じです。

 

ただ自分にも嫌いなものがあり、どうしても好きになれず、すんなり受け入れられず避けてしまう、辞書通りの行動を取るもの、人(人については極力なんとか理解しようとはしますが…)、こと、があります。

矛盾してますね。

 

人生、有限なので、自分にとって必要かどうかを判断して、優先順位の上のものからやっていかなければ、やりたい事ができずに人生が終わってしまいます。

 

でも、嫌い、とか、知らない、とか、やらない、ことを自分のアイデンティティをかたちづくるものとして持っているのは、なんだか違うような気がするのです。

 

迷惑をかける、物事以外は、とりあえず保留でもいいんじゃないかな?とか思います。

 

最近顕著なのは、私、テレビ見ない。テレビ家にないし。

 

知るか!

 

お前がテレビ見ないことなんてどーでもえーんじゃ!それがカッコいいとか、効率的な私サイコー的な匂いを撒き散らしとんじゃ!

 

すいません。僕がいちゃもん悪口おじさんになってしまいました。テレビが大好きでのんべんだらりんと録画したテレビを見ている自分が否定された気がしたのです。

実際、無駄で、でも気持ちを楽にするために必要な無駄なので、微妙です。

さらに、たまに自分もネットの生配信ばかり見てテレビを全く見ていない時期とかがあるので、矛盾だらけです。

 

何を書いているか分からなくなりましたが、嫌い、とか、何かをしない事、を自分を識別するものとするより、好き、とか、これをしている、作り出している、ということを大事にした方がいいな、と思ったのです。

 

ネットの発達で、個人が自分の意見を気軽に発信できるようになりましたが、なにかの発達を妨げるような悪口ではなく、あたらしく素敵な何かが生まれるような言葉が増えればいいなあ。

 

と、サンデーモーニングを見ながら思ったのです。

あの番組で、喝!を入れられた人からの反論、張本氏に喝!、のコーナーが新設されれば、サンデーモーニングをもう一度、報道番組と思うことにします。

 

今日は矛盾だらけだったので、僕の大好きなNegiccoが歌う「矛盾はじめました」(作詞は僕の大好きなミュージシャン土岐麻子さん、作曲はイカしたメロディを次々と産む、さかいゆうさんというもう超僕好みの歌なのに、シングルは、最近のNegiccoにしてはイマイチな売り上げでした…が名曲です。強く生きるために、自分の中の矛盾を受け入れていくことにしたわ、という歌です。お疲れ気味の方に是非聴いていただきたい1曲です。)を聞いて心を整えたいと思います。

 

おやすみなさい。